昭和41年02月18日 月次祭



 夕食の、ちょっと前でございました。一番下の栄四郎が、勉強を致しておりました。それを長男が見てやっておりました。算数なんです。大体が、頭があまり良くないもんですから、ま、手をとって教えるようにして教えておるけれども、なかなか分からない。お前は、この問題は解ききったじゃないかと。同じじゃないかと。ただそれの応用問題ち言うことだけの事じゃないかち言うて、もう繰り返し繰り返し教えておるけれども、なかなか頭に入らんらしい。ね。
 その同じ様な例の問題をです。簡単に解けるのに、それが応用問題になると解けない。信心もだんだん、信心させて頂いとりますとです、ね。おかげをだんだん頂く一つの道というものを、まぁ体得するんでございますけれども。それが応用問題になりますと、なかなか解けない。ね。人の事ならば、例えばそらあぁた、今そこのところが、そげな事じゃおかげにならん。
 そこをこういうふうにしていかなきゃ、おかげにならんことは分かるんだけれど。まぁそれが、こと自分の事になってまいりますと、なかなかおかげを、自分に分からん。言うてもろうても、なかなか分からん。ね。病気で入信した人、経済的な難儀な問題で入信した人、ね。人間関係の、様々な難儀な苦しみから信心に縁を頂いた人。様々です。なぁにも無いのだけれど、やはり信心が好きで、何とはなしにお参りをしたという人達も無いではありません。
 けれどもその殆どの人が、何かそこに一つの、難儀というものを感じましてから、そこから入信のおかげを頂き、病気のものは健康のおかげを頂き。医者の見放した、いわば病人が助かるほどのおかげを頂いた。ね。又は経済的にどうにも四苦八苦、いわば首が回らんと言った様な事柄でも、段々信心によって道付けをしてもろうて、段々おかげを頂く様になってきた。
 それこそ考えてみると、もう本当に家の中は真っ暗。親と子の又は夫婦の仲に、又は自分の職場の中に、様々なややこしい人間関係のために、苦しんでおったのが、信心の教えを頂いて、そこが解決のおかげを頂き、円満のおかげを頂いておる。だから人間関係の事だけならば、私がもう心得ておる。金銭のことだけならば私が心得ておる。もう病気のことならば私が心得ておる。ね。大体同じなんです、おかげを受けるということは。信心しておかげを受けるというのは、ね。
 わが心が神に向こうて、しかもその向こうた心が、ね。いわゆる和賀心、和らぎ喜ぶ心にならせて頂けば、おかげを頂くのじゃ。同じですね。努力のことだけならば、私はもう、自身があるけれども、もう金銭のことになると弱いという人がある。ね。それはいよいよ、応用の利かないだけなんです。どういう様な事にでも応用が利く信心と。ためにはどうでもその、基礎であります、基本になりますところの信心をです。本気で体得させていただいとかなければいけない。ね。
 稽古せにゃいけんのです。突発的に起きてくるものですからね、それが。ね。ですから、その突発的な問題をです。やっぱその自分の心のなかに、さぁこれはどう言う様な道付けをして、どう言う様な教えを、ここに生かさせて行かなければならないかと言う事を、ね。考える余裕が無いと、やはり応用がきかんのです。ね。基本と言うものを、しっかりやっとかにゃいけません。
 昨日は、親教会のお月次祭の、引き続きに善導寺の総代さん方が、全部ここに集まられまして、総代会がございました。私も総代のなかに加えて頂いておりますから、私の方が当番になっていたわけなんです。もう長年総代会が続けられておるんですけれども、もう今晩ほど、総代がみんな寄ったことは無かった。十四名おりました。もう奥さん同伴でした皆さん。後家さんな、そんなわけにいかんけんで、一人でしたけれど。もう奥さんのある人はみんな奥さんを連れてから、一緒に見えられました。
 そして夕方まで、まぁ信心の共励やら、まぁ色々おかげを頂いたわけでございます。ところがなかに一人、高木さんと言う方がおられます。その方は、その一時の案内をしてあったんですけれども、それが七時と間違えとったらしい。ですから七時に、昨日は見えておられる。この篠原さんの、従兄弟さんに当たられる方なんです。まぁ実に丁寧な信心をされます。ね。
 ちょぅど私、お風呂に入っておりましたから、お風呂から上がって、それでまぁ、昨日の残り残りと言うが、その残りのものをまぁ差し上げて、一杯あげてそれから、ご飯ども差し上げてからです、まぁいろいろお話させて頂いておりました。そしたらその、高木さんが言われることなんです。私は先生もう、ご信心頂くようにならせて頂いてから、もういつも心がけさせて頂いております。ね。
 折角信心させて頂くのでございますから、信心のなかったときよりか、少しはましな少しは違った、なるほどあれは信心してるけんというような変わり方をしなければならんと言うことを、いつも考えております。私はもう盛光という酒屋さんに、もう長年勤めておりますから、精米のほうをやっておられるらしい。沢山なカマスが出来る。そのカマスを、まぁかつがつまぁその、払い下げて帰るわけでしょうけれどもです。カマスを買いに来る人が申します。
 ここんとんごと、綺麗にカマスを整理して、きちっとしてあるとこは無いち、言うて貰うたんべんに、私の信心が、少しづつでも分かって頂きよると思うて、有難いと思いますといった様な事を言うておられます。そう言う様な、もう雑になりそうなところをです。やっぱ信心で、実意丁寧にしておるという事なんです。どうでしょうか、皆さん御道の信心させて頂いておるから、ね。少しはましな、少しは違った、自分にならせて頂かなければならない。
 でないと神様に対しても相済まんと言う様な、私は思い方をしておられる方が、どのくらいあるだろうか。ね。おかげを頂かねばならない。おかげを頂くという事には、人一倍の思いを持っておるのですけれどもです、ね。自分が変わらなければならないという事。ね。果たして信心させて頂くようになって、どれだけ変わらせて頂いたか。しかも変わり映えがしたかどうか。自分は変わった積りでおるけれども、ね。人から見て、果たして本当に変わっておるだろうか。ね。
 人から成程と、合点が行かれるような自分になっておるだろうか。なかなか、私共はです自分よがりですから、人間と言うものはもう、慢心とうぬぼれのないものは無いと言われておるぐらいでございますから、ね。私共はうぬぼれておって、信心させて頂いておるから、自分は間違いの無い生き方をしておるような思い方をして、実を言うたら、間違いだらけの生活をしておる。変わり映えのあるあり方になっていないと。ね。自分は変わった積りでおっても、ね。おかげのほうは変わってきてない。
 自分は変わった積りであっても、ね。自分の周囲の者が変わっていきよる様には見えない。自分だけは偉いのだけれども、子供が付いて来ない。家族が付いて来ないそんな筈は無い。ね。厳しく自分というものを本気で反省させて頂いて、変わらせて頂くと言う事に、御道の信心を頂いておると言う事にです。信心の稽古をさせて頂いておる者としての、変わり方と言うものがです、出来なければいけんとおもうですね。
 先日でした、今まぁだ、田主丸の長瀬さんの奥さんが、晩のお届けに参って見えました。先生今日は、本当にもう、私はもうおかげを落としました。で失敗しましてからと言うてから、お届けされるんです。と言うのは、あの夕方でしょう。もう電気を点けられておられたそうですから。その近所の奥さんがやって見えられた。それであそこの一番下の子の、小学校の二年生になる娘の子がおりました。まつ子さん。その松子さんを捕まえて、その何かその、喧嘩しとったらしいですね。
 いわば、子供の喧嘩に親が出て来た訳なんです。はぁもうこりゃ、子供の喧嘩に親が出ちゃならんと思うてです、電気をつけよったつが、電気を点けてから、もう一時ばっかり言わっしゃったなら、帰らっしゃろうからと思うてから、その親のことを、じっとその黙って、その後聞きよった。ところが、十分たったっちゃいなっしゃらん。もうしかも、あなた二十分も、がみがみ、そのそれこそ、小さい子供を捕まえてその、やかましゅう言いよりなさる。
 金光様金光様で辛抱しよったばってん、とうとう辛抱されんごたったけんで、出て行かっしゃった。大体その奥さんどうしたっですかち。家のまつ子がどうかしたっですかち言うてその聞いた。ね。所がその色々なそのま、子供の言うた事はどう言う事を言うたか知らんけれども、まぁ本当にこれから注意させますから、まぁこらえて下さいち言うて言うけれども、そのあなたがそげな風なその教育をしよるけん、まつ子さんはこげなこつば、言うたりしたりするち言うてその、まぁやかましかったらしい。ね。
 まぁそれでそのそのくらい、私が話しておるくらいに、もっとらっとあらね、そんな風になるでしょうけれども、そりゃもう本当にもう、それこそもうびっくり程なってから、やって来とりなさるとでしょうが。こっちも二十分間一緒に、だぁっとこういう事でしょうが。もうこらえてこらえてから、もうじわっと言いよるばってん、まぁだそこにここに何て言うか、ね。こうそのもう叩かれる心と心が。ね。
 そこにその、もうそれこそ聞くに堪えないような、悪口雑言を言わっしゃるから、ぞんなら私もいっちょ言わせて頂きまっしょと言うわけで言うたと言われるのです。ね。それでまぁそれでやれやれだったらしいですけれども、さぁ、帰らっしゃった、その後にです。気持ちは、すーっとしたごたる風だけれども、日頃の信心をさせて頂いておるものが、こんなこつで良かじゃろかと思うた。それから御神前に出て、それこそ長い長い御祈念をさせて頂いて、お詫びをさせて頂きましたとこう言われる。ね。
 そして暫く致しましたらです。子供さん連れてから、そのお菓子箱どん持ってから、また出て来なさった。もう本当に、私はさっきはご無礼しましたち。もう本当に言いたい放題のことを言うてから。もう今までに言うた事は、もうあら水に流してくださいち。まつ子さんに言うて、あぁたから言うて下さいち言うて、そのお菓子箱をやってから、断りに来なさった。ね。分かっていたちゃそれで良い。
 何ばそのお菓子箱ば頂きまっしょうかち言うて、お菓子箱は返されましたけれども、その後にはそう言う様なおかげを頂いたと、こう言うておられます。ね。応用問題もう解きかかったばってん、とうとうもうしじゅうくが出来じゃったわけですたい。だから私がそこんところが、本当に解けたらそれが徳になるだろうけれども、まぁおかげにはなった、ね。和解が出来た。向こうも詫びに見えた。そう言う様な事でもです。一回体験させて頂いたから、もう後は楽かと言うと、そんな訳にゃいかんのです。
 そこんところをです。様々な問題が変わっても、毛色が変わってもです。そこんとところを、一生懸命、信心の教えに取り組ませて頂いていかんと、その問題が解けません
。私は今日は、この今晩の御理解を、皆さんに聞いて頂く時に、どういう御理解を、皆さんに聞いて頂こうかと思うた。そしたらあの一番下に、朝凪の酒の粕と言うのが、あのございますでしょう。あれに粕と言う字が書いてある。米辺に白と書いてある。白いという字ですね。粕と言う字は米へんに白と言う字が書く。
 その白と言う字を頂いた。いや粕と言う字を頂いた。それで今日の御理解を皆さんに、まぁ聞いて頂いたわけです。ね。私共がです、いよいよ問題が出された時にです。確かに、その問題ならば解ききるのだけれども、ね。ただそれが金銭のことだけならば、どげな、例えばその、さぁもう明日が手形と言う様な時でもです。もうおかげを頂きつけておるからこれはこれを、いわゆる呼吸と言うものがある事を覚えておる。ところが人間関係になるともう駄目。
 人間関係のことには、おかげ頂きつけておるけれど、金銭のおかげはないと言う様な事ではいけん、同じ事なんです。ね。結局おかげを頂くのは、和賀心である。和らぎ喜ぶ心である。ね。その和らぎ喜ぶ心が出ないという事がです。どういう様な事か、どうしてか、ね。成程昨日、竹下さんが言われた様にです。本気で私共信心させて頂くものが、少しは変わり映えがせにゃいかんと言うてです。そのそういう意味でだけではいけんて、心から変わらなければ。ね。
 今頃そげなもんじゃいかん、この様なものでなからにゃいけん、ね。いよいよ黒を白うしなければいけないという事。精白する。もう精白した上にも精白しなければいけない。私共の我情と言うもの我欲と言うものを、ね。私共信心させて頂くものがです、ね。憎い可愛い。惜しい欲しいの心をとったら楽じゃと、四神様は仰っておられます。ね。憎いとか可愛いとか、惜しいとか欲しいと言う様な心を、私共の心からとらせて頂いたら楽じゃと。と言う事は私共の心がです、いつも和らいでおると言う事なんです。
 惜しい欲しいがある。ね。恨みつらみがある、ね。それこそ信心のない時代にはです、ね。この事だけは、もうそれこそ一生忘れんと言うて、恨みその骨髄に徹すると言う様に思うておるような事柄がです。信心させて頂くようになると、それがスーッと解けていく。ね。そういうおかげを頂かなければいけないと、ね。いわゆる、教祖の神様が、我情我欲を離れてとこう仰る。ね。我情我欲を離れなければ、真の道が分からない。ね。勿論わが身は神徳の中に生かされてあるという事になってこない。
 わが身が神徳の中に生かされてあるという、喜びに浸らせて頂く時に、一切の問題が解決する。金銭のことだけではない、人間関係のことだけではない。ね。健康上のことだけではない。人間の幸せである所の真実の心。和らぎ喜ぶ心と言うものが頂けれる。ね。そこに例えば、ぐうぐ言うて我慢せんでも済む所のおかげが頂けれる。ね。私は今日子供が勉強しよる、その後に時に、私が中で少しもう分からんから、ちったもうもやもやしよりごたる風ですから、兄ちゃんのほうが。それで楽しゅう教えろ。
 もっとらっと教えろと。栄四郎君はもう結構じゃな、ちゃんと兄ちゃんが教えてくれる。こういう問題でも誰も教え手が無かったらどうするの。そしたらもう腹かいとりますですもんちっと。ね。それでこの教えて貰う兄ちゃんがあるという事が分かろうがち。良かちも悪かちも言いよらんです。それで信心もやっぱそげな風なもんじゃないだろうかと、私は思うですたいね。むげに言うとそのそういう事になってくる。ね。
 そげなこっでおかげば受けられるかと、先生がひどい事を仰ったと言う事になってくる。ね。繰り返し、繰り返ししとっても分からん。それこそ、今日の長男じゃないけれども、本当に、どうして分からんかと言うのが、表情にも出てくることがあるでしょう。ね。けれどもそれを、本当に教えて頂くということが有難い。私が教えるところはです、教えるところは、必ずおかげが伴うておるということ。
 今日高木さんが言うておられました。そして変わった、本当に実意丁寧に変わってその、その様に心がけを持っておられるのだけれどもです。村内に色々のことが、沢山ありますち。病気をしてる人もおりゃ、人間関係で非常に難儀しておられる人がありますから、お話をしようと思うけれども、私がまぁだおかげらしいおかげば頂ききらんから、人にも進められんとこう言うておられる。だからそこんにきにね、ちった色々お互い考えなければいけないところがあるようですね。
 私の言うところ私の言う事を、皆さんが行じられるところに、もう必ず喜びだけではない。その喜びにはおかげが伴うということ。そのおかげを引っさげてのお導きであり、おかげを引っさげての、日々の信心生活であるということ。ね。私はしきりに、その昨日のことがある。これは本当に、ね。死ぬるとが近付いとるとじゃなかじゃろかと思う。もう奥城のことが、この頃非常に気になって、気になってたまらん。ね。同時に例え奥城の場所を、奥城の場所をと思うて心掛けさせて頂いておる。
 ま、一生懸命思うておるからでしょう。神様が次々と理想の地を、こうやって与えてくださる。ははぁもう私の心のなかに定まった。もう皆さん安心して良かですよ。奥城は私の心の仲に定まっておるのだから。いやそれでなくてもです。本当にお骨を、沢山ここには預かっておると同様にです。皆さん方改式しておられる方達は、持って行き所がなくて困っておられるのですよ。ね。私の心の中に、そこに丁度心の中に言われておるのは、約三百坪ばかりのところ。高見のところ、ね。そしてそこに私がです。
 梅と桜と柳ば一杯、そこに植えたいと思うておる。お日様から近くの所。ほらもう毎日でも、例えば皆さんが朝参りしてきたら、帰り掛けでも寄って言って貰える様な所。さぁ御霊様のお祭りがあったというたら、皆んなでそこそこにお参りさせて頂ける様な所に、私の心の中にですその奥城がこの頃描かれておる。しかもそこに私がその理想郷です。私も沈まならん所。皆さんも同じ事、ね。そこにもう本当にもうここだけにゃどんなに金をかけても良かろうと、ね。そして桜をいっぱい植えたい。
 梅をいっぱい植えたい。ね。柳も植えたい。そして私がです自然石に小さく一つその何か書いて、そこに記念碑の様な物を立てさせて貰う。そして椛目の信心の、こらまぁ言うならばです。皆さんのおかげを頂きたいと願うておられる、一つの願いの焦点であり、理想であるという様なおかげの事を、そこに書かせて頂こう。「梅の香りを桜に持たせ、しだれ柳に咲かせたい」と言う。私が書いてからそれを一つ記念碑のように、小さく横に立てさせて頂こうと。
 何時の時代までも、椛目にご縁を頂く人達は、本当に桜の花が咲いたような、華やかなおかげを頂いて貰わなければならない。為にはどうでも馥郁として心豊かな信心の香りが発して来る様な、梅の花の様な信心。辛抱の強い信心をさせて頂かなければならん。どうりにはもう本当に、馬鹿じゃなかろうかと言う位に、素直に素直におかげを頂かせてもらわなければならん。二代に、三代にです、ね。もう本当にここの初代ばかりは、確かに華やかな派手な人であった。おかげもだから華やかな派手であった。
 昨日、親先生と親奥様をお供してから、あちらへお供しました。ね。もうただ、もうものの抜け殻のようにしてから拝んでおられた。ね。もう本当にま、何時の間にこういう事が、自分の子供の中に、こういう事が出来るようになったじゃろかと思うて、まぁ感激しておられるだろうと、私は思うのです。ね。本当にそらそうです。私ぐらいの者の信心にです。それこそ桜の花じゃないけれども、あれが立派に感謝された時には、それこそ桜の花が咲いたような感じのことになるのじゃなかろうか。
 けれどもそれは桜の花の様なおかげではあるけれども、その内容たるや。もういよいよ椛目の初代ばかりは、馬鹿んごと素直な人じゃった。本当に(?)な人じゃったと。そしてまた辛抱強い人じゃったと。それは梅の花の信心のそれの様であったという様な内容を持った所の、桜の花でなからなければならないという事。信心辛抱さえしときゃええ、梅の花のごたる、梅の花のごたると言うてです。何時も三ヶ月じっと辛抱しとかなければならんと言う、いわば清々しいはあるかも知れませんけれども、ね。
 清々しいだけじゃいけん。賑やかに、ね。華やかにおかげを頂かせてもらう。けれどもその内容たるやは、梅の花じゃない、柳の素直さと言うものを、私共は身に付けていくところの、信心にならなければならない。ね。どうでも私は、奥城にはそういう私の思いを一つ現していきたい。ね。奥城にお参りさせて頂いたら、その記念碑を見せて頂いたら、はぁ今私に柳が欠けておった、梅の花の信心が欠けておったと、その場で心が開けてくる。有難うございましたと、お礼を申して帰られるような。
 帰ってみたら、桜の花の様なおかげが待ち受けておったという様な、私はおかげを皆さんに、頂いてもらいたいと、こう思うのです。ね。ためにはどうでも皆さん、おかげを頂かせて頂いて、ね。確かに信心させて頂くなら、椛目流に信心が段々進んで、成長していかなければいけん。ね。どれほどに私共がです、ね。素直にならせて頂きよるか。どれほど私は辛抱強うならせて頂きよるか。ね。ただ拝み上手、おかげ下手であってはならない。これは四神様のお言葉です、ね。
 そうにゃ拝みござるばってんおかげ下手。そりゃいかん。拝む時の内容がです。和賀心に繋がるもの。そう言う様なです、例えば信心を私共の信心の基礎的な所に、しっかり培わせて頂いて、ね。人間関係であろうが金銭の問題であろうが、健康の問題であろうが人間の、あらゆる難儀という難儀に直面した時にです、ね。そこに一つのこれになって力を受け、これになってお徳を受けさせて頂くぞという様なです。楽しみも元気の心が湧いてくるような信心を、身に付けておかなければならん。ね。
 そんな健康の時には、その永瀬さんの奥さんの事ではないですけれども、そういう場合、やはり、たわれ転ぶということもございますけれども。そこにいよいよ信心不足を、いよいよ悟らせて貰うて、本気でおかげを頂かせてもらいたいと、私は思うのです。ね。そのためには、私は今日頂いております、ね。黒を白くしなければならん。もう精白した上にも精白しなければならない。私共の心の中から我情我欲を、ね。憎い可愛い、ね。あの可愛いという様なのをね、可愛いと思う心が神心と仰る。
 あれとはちょっと違うです。もう可愛ゆうして応えん。もうこの子達は、目ん玉の中に入れたっちゃ痛うなかちいうごたる、あれじゃいけんのです。あれじゃいけんです。私には神様がお許しを頂きませんから、子供を絶対抱きません。私は抱いたことがないです、ね。私が子供を一人ひとり抱きよりますとですね。その子供の情がうつる。自分の子供でも、他人の子供でも同じ事。で私は絶対抱いたこと無いのですけれれも、もうこれが最後と言う、最後の栄四郎はですね。
 もう私はあの、あれが最後という事が分かっておった、ね。女、男、女男で、ずうっとおかげ頂いて来とるんです。そして七人目に息子、息子になったから、あぁこれでもう、終止符だなぁと私は思うた。ですからそのあれだけはです、もうどういうものか知らんけれども、私がその抱いちゃいかんと言われるけれども、やっぱ抱いちゃった。そしてこれだけは、私がもう神様に、その申し訳の無いごとあるですけれども、私があんまりその、だからこれだけは私はなめとった。本当です、ね。
 もうお説教するとはもう、この人だけです、私をお説教するとは。ね。そういういわゆる、可愛いという心がいけんのです。ね。特別にその人だけが可愛いと言う心が、神様の機感に叶わんのです。神心でなからにゃいけんのですね。憎い可愛い。惜しい欲しい。それに恨みとかねたみとかと言う様な事も、確かにあったと思います、そう言う様なものを、私共の心から、先ず取り払わして頂けば楽になる。和賀心になる。
 我情我欲を離れさせて頂けば、私共の心がわが身は神徳の中に生かされておる所の喜びを、じっと心に入れて実感する事が出来る。有難いとか有難いなぁと言うものが、自分の周囲にいっぱい感ずることが出来る。そういう時に例えば誰が腹かいてもいい事がある。例えば咄嗟の問題が起こってきようが、どっこいと言う心が頂ける。ね。精白をして黒を白くしていくという事は、そう言う様な事だと、ね。二級酒言う様な事は、お酒の匂いがぷんぷんち、ね。だから匂いじゃいかん。一級酒ともなると。
 特級酒ともなるともう匂いじゃなか。もう酒も香りと言う。もう酒を飲みきらんもんでも、香りだけでも本当にあの、香りを利いただけでも、素晴らしい香りが致します。ね。それにはどうでも、ね。もう本当の銘酒を作ります時はですね。七割から、八割ぐらい精白いたします。一升の米が二合になってしまいます。ね。そこを教祖の神様はです、ね。一升のものを、一升全部、虚しゅうされたと言うのですから、素晴らしいことなんです。ね。せめて私共がです、変わり映えがするということは、ね。
 一升の米から八合。自分がなっとるかどうか。七合になったか。六合になったか。ね。精白した上にも精白させて頂くところからです。良いお酒が出来るようなもの。良い香りが、馥郁として、香りが立って来る様なもの。ね。そこんところがです、私共は本当に一つ実際の上に、それを体験させて頂かねばならん。ね。改まっていく、磨いていくということがそれなんです。いよいよお米を精白していくということ。
 そこから、只今私が申しますような、和らぎ喜ぶ心が頂けれる。内容としてです、ね。おかげは桜の花のように、内容としては、柳のように梅の花の様に、そのまた内容を言うと惜しい、欲しい憎いとか、可愛いとかと言った様な心を取り除かせてもらい。我情だ我欲だというのを、私共の心から取り払わせて頂くところのおかげを、私は一生懸命に稽古する。ね。そのことのために、椛目通いをする。
 心の信心の稽古に通うて来るところとこう仰る。ね。例えば私が、いわゆる朝の御祈念、この月次祭の例えば、御祈念にです、ね。本当に三分か、五分かの御祈念しか致しませんけれども。それが神様に有難い意味合いにおいて、向上する通うということは。ね。私の心の上に限りなく、その高木さんじゃないですけれども、変わり映えのする私にならなければならないという事に、間違いの無い神様のお知らせを頂いてです。
 間違いの無い変わり方をしていきよるから、それが出来るんだと私は思う。ね。ただ変わっただけじゃいけん。教えに基づいてからの変わり方でなければいけん。そこにいよいよ、私共の心の中に、七割減とか八割減と言われるような、精白の度の高いお米が、ね。お米はおよねと言う。およねはねと仰る。心の目は心なんだ。心がそういう風に磨かせていくおかげを頂かせてもろうて、ね。
 私は時々よそから参ってくる、昨日も熊本の吉田先生が、近所の教会のやっぱり、同姓の吉田と言う先生をお導きして見えられた。ちょうど総代会の最中でございましたから、まぁちょっと降りてから、挨拶だけしました。ね。それで私が、吉田先生に申しました。もう時間がないですかね。折角来て頂いとるですから、何か一言ぐらいと、私は思うておった。そしてもうちょっとお食事していって下さいと。私はご無礼しますからどうぞ。しかしあの、吉田先生有難いですよ。
 あなたが椛目通いをなさるようになってから、ね。あぁたがその、お酒は大変好きだけど、日本酒は飲まんと言いなさる。夏でも冬でもビールしか飲まんと言われるから、もう私は、いつ吉田先生がこらっしゃったっちゃ良いごと、神様にお願いしよるけん、この頃はもう、冬でもビールを供え頂いておる。こらもう先生、あぁたの徳ですばいちこう。もうあなたのお徳でビールを沢山頂いておるから、どうぞビールでも召し上がって帰って下さいち言うて、言うておりました。
 横で聞いておる吉田先生が、何ち言う顔でした。もうそれで分かるんです。それだって信心なんです。ね。次に私が申しました。もうとにかく人が助かると言う事はですね。教祖の神様が、人が助かりさえすれば良いと仰ったのはですね。あれは教祖の神様が、俺が助かる自分自身が助かりさえすれば良いと、言う事であったに違いないと私は思うんですよ。自分が助からずして人が助かりさえすりゃ良いじゃでけん。自分が助かるから自分が百なら百、千なら千の助かった力を持っておるから千の人も助かるのだ。
 もう自分が助かる以外は無いですよ。はぁそれはひとくるみ、今日はおかげ頂きましたち言うてから、言うておられました。ね。思い方がです、同じ例えば昨日、高木さんの話を聞きよってもです。これだけ変わり映えのするような変わり方をしよりなさるとに、どうして人のお導きを出来んごと、おかげ頂かっしゃらんじゃろうかと私は思うた。それに焦点を置いてあるとじゃけん。ね。本当にこの人が、まぁいうなら椛目で磨きなさったなぁと私は思うくらいでした。
 先ほど神饌室にですね、長男が、久富先生あの、川豚ちゃどげなもんですかち、川豚は知らんですよち言うちから。何もそのあそこに、川豚がお供えになっとるそうですたい。川豚のお菓子か何かの。あぁそりゃふぐですたいち。しかし川豚も白ごっちゃなかですもんね。あらふぐとは河豚と書いてある。ね。だからこれではそのおかげがですね、いわゆるその、スマートになっていかんです。ね。私はだから、昨日夕べのうちに、一緒に見えた方の話を聞いておったり、どこどこの人達の話を聞きよるとですね。
 もう実にその不自然なんです、しらごっじゃなか。ばってんその川豚ち言い御座る様な感じがするとですたい(笑い)椛目のもんな、あんな言い方はせんもんね。ほんにあのこん道を知っとる。ね。ですから例えばその、ほんなごつであってもですね。やはり人が笑わんごたる、おかげでなからにゃいかんち言うこと。あら川豚じゃいけんのです。そしてそればほんなごつのごと思うて、こら川豚ですよち言うて人にまで教えよる。
 こら本当にもう学の無いとはいかんですね。私は先ほど言い直しましたが、私は梅の花の、あの一枚に郁々としてというでしょう。もういつも久保山先生だん、また先生あなたは、郁々としてち言いなさったですが、あら馥郁としてですよち。それがあぁた思いこんどりなさるとが、こげんなるとですね。ですから間違うておる時に思い込んでおったらです。それを本気で一つ改めていかにゃいかん。ね。
 本当のものにして行かにゃいかん。でないと人から笑われる、ね。そらしらごっじゃなかばってんその、おかげのほうが本当の事になって行かん。ね。どうぞ一つ皆さん、本当にそういう方が、何時実現するか分からないけれど、ね。もう本当にあの御造営が、もう( ? )奥城だけは、どうでもおかげ頂きたい。もうしかも、ここならばと言うごたるところをです。
私の心には定まっておるのでございますから。皆さんがおかげさえ頂きゃ良かっじゃん。出来るとです。そしてそこにはです、もう桜の花をいっぱい植えたいと思う。そして、梅の花もそして柳の木も。そしてそこに私が、こげん小さい記念碑を建てたいと思う、ね。「梅の香りを桜に持たせ、しだれ柳に咲かせたい」ような、と言う様なおかげを頂くために、梅とか柳とかと言う信心が内容にならなければならないと。そげん思うです。
   どうぞ。